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井戸いど 平左衛門へいざえもん

活躍かつやくしたとし:1672~1733年

関係かんけいする市町しまち笠岡市かさおかし

なにをしていた人?:代官だいかん

関係かんけいのある情報じょうほう

威徳寺いとくじ
井戸公園いどこうえん道の駅みち えき 笠岡かさおかベイファーム

井戸平左衛門380
井戸平左衛門 威徳寺所蔵いとくじしょぞう
 井戸平左衛門いどへいざえもんは、寛文かんぶん12(1672)ねん まれました。
 享保きょうほう16(1731)年9月ねん がつ、60さいのとき、石見銀山いわみぎんざん受け持う も石見国大森いわみのくにおおもりいま島根県大田市しまねけんおおたし)の代官だいかん任命にんめいされました。翌年よくねんから、備中国笠岡代官びっちゅうこくかさおかだいかん兼務けんむしました。
 このとき西日本一帯にしにほんいったいはウンカの大発生だいはっせいによっていまだかつてない大飢饉だいききんとなっていました。平左衛門へいざえもん事態じたい一刻いっこくあらそうと判断はんだんして、幕府ばくふ命令めいれいたずに独断どくだん代官所だいかんしょ米蔵こめぐら開放かいほうして、えた人々ひとびとこめあたえたといいます。また、被害ひがいおおきな村々むらむら年貢ねんぐおもってやめ、ひとびとにたすいのこころきました。さらに、やせた土地とちでもとれる食物しょくもつとして甘藷(サツマイモ)をとりよせてそだてさせ、飢饉ききんをしのぎました。こうした平左衛門へいざえもん努力どりょくみのって、笠岡かさおかではひとりも飢え死う じにするひとはなかったとつたえられています。いまでも笠岡かさおか人々ひとびとは、平左衛門へいざえもんのことを「いも代官」だいかんび、いつまでも感謝かんしゃ気持きもちをっています。
 平左衛門へいざえもん死後しご各地かくち功績こうせきをたたえる頌徳碑しょうとくひてられました。そのかず数百ヵ所すうひゃっかしょにもなるそうです。はか笠岡かさおか曹洞宗威徳寺そうとうしゅういとくじにあり、笠岡市指定史跡かさおかししていしせきとなっています。

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