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吉備真備きびのまきび

活躍かつやくしたとし:695~775年

関係かんけいする市町しまち矢掛町やかげちょう倉敷市くらしきし

なにをしていた人?:学者がくしゃ

関係かんけいのある情報じょうほう

まきび記念館きねんかん阿藤伯海記念公園あとうはくみきねんこうえん吉備真備公園きびのまきびこうえんやかげ郷土美術館きょうどびじゅつかん下道氏墓しもつみちしはか

 吉備真備きびのまきびは、古代吉備こだいきび豪族ごうぞくであった下道氏しもつみちし出身しゅっしん下道真備しもつみちのまきび現在げんざい倉敷市真備町くらしきしまびちょう町名ちょうめいは、かれ出身地しゅっしんちであることに由来ゆらいします。
 吉備真備きびのまきび養老元ようろうがん(717)ねん、23さいのときに阿倍仲麻呂あべのなかまろらとともに遣唐留学生けんとうりゅうがくせいとして唐に渡とう わたり、儒学じゅがく天文学てんもんがく音楽おんがく兵学へいがくなどを学んだ後まな  あと天平てんぴょう7(735)ねんおおくの 典籍てんせき武具ぶぐ楽器がっきたずさえて帰国きこくしました。わがくににおける「囲碁いご元祖がんそ」ともわれています。
 天平てんぴょう18(746)ねん吉備朝臣きびのあそみせいをもらいました。天平勝宝てんぴょうしょうほう3(751)ねん、57さい遣唐副使けんとうふくしとなり、翌年よくねんふたた唐に渡とう わたりました。
 聖武天皇しょうむてんのう命を受めい うけ、とう許可きょかをもらうことなく秘密裏ひみつり鑑真がんじんとう僧侶そうりょ日本にほん律宗りっしゅう開祖かいそ)をつれて天平勝宝てんぴょうしょうほう5(753)ねん帰国きこくしています。その成果せいかにもかかわらず、帰国後きこくご九州きゅうしゅうにしばらくいることとなりますが、天平宝字てんぴょうほうじ8(764)ねん、70さいのときに造東大寺長官ぞうとうだいじちょうかん任命にんめいされて平城京へいじょうきょうかえりました。同じ年おな とし恵美押勝えみのおしかつらん功績こうせきをあげ、天平神護てんぴょうじんご2(766)ねん右大臣うだいじんとなり律令りつりょう刪定さんていおおいに貢献こうけんしました。
 遣唐使けんとうしとして二度にどにわたり入唐にゅうとうあしかけ18年間滞在ねんかんたいざい)し、唐文化とうぶんか輸入ゆにゅうにつとめ、その知識を政治ちしき せいじ反映はんえいさせていった功績こうせきおおきく、また、武器ぶき兵学へいがくにもすぐれ、軍事改革ぐんじかいかくにもたずさわっていたとかんがえられています。

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