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太田おおた 辰五郎たつごろう

活躍かつやくしたとし:1802~1854年(諸説しょせつあり)

関係かんけいする市町しまち新見市にいみし

なにをしていた人?:鉄山師てつざんし畜産家ちくさんか

関係かんけいのある情報じょうほう

千屋牛資料館ちやうししりょうかん

 太田辰五郎おおたたつごろうは、享和きょうわ2(1802)ねん諸説しょせつあり)、いま新見市千屋にいみしちや太田家おおたけ長男ちょうなんとしてまれました。太田家おおたけ先祖せんぞ千屋ちや砂鉄さてつ発見はっけんし、鉄山業てつざんぎょうざいして大地主おおじぬしとなりました。5代目だいめにあたる辰五郎たつごろう家業かぎょうばすとともに、植林しょくりん開墾かいこん、とりわけ和牛わぎゅう振興しんこうちからそそぎました。
 1830年代ねんだいこった長雨ながあめかんばつなどの異常気象いじょうきしょうによりこめ不作ふさくとしつづくと、「こめができないとかんなながし(いけからいけ泥水どろみずなが砂鉄さてつ精製せいせいすること)にみんなちかられるが、製鉄せいてつ材料ざいりょうとなる砂鉄さてつ燃料ねんりょうとなる木炭もくたん将来的しょうらいてきにはそこをつく。耕地こうちすくないこのむら後世こうせいまで根付ねづ産業さんぎょうはないものか」とかんがえ、「うしくさがあればえるし、ふん田畑たはたのこやしになる。また、うし高値たかね取引とりひきされる。うしやせばむららしがゆたかになる」とおもいつき、以後いごうし増頭ぞうとう改良かいりょうちからくしました。当時とうじうしは、3ねんに1とうまないうし普通ふつうでしたが、まず増頭ぞうとう重要じゅうようかんがえた辰五郎たつごろうは、よりおおうしつくるため飼育技術しいくぎじゅつまなぶとともに、仕事しごと大坂おおさか江戸えど旅行りょこうするたびに牛市うしいちき、産牛改良さんぎゅうかいりょう努力どりょくしました。努力どりょく甲斐かいがあって、もともと小型種こがたしゅであった千屋牛ちやうしを、大型おおがた多産たさん丈夫じょうぶでおとなしい和牛わぎゅう改良かいりょうすることに成功せいこうしました。その優秀ゆうしゅううしは「大赤蔓おおあかつる」とばれ、現在げんざい千屋牛ちやうし基礎きそとなりました。また販売はんばいにもちからをいれ、天保てんぽう5(1834)ねん自分じぶんいえ提供ていきょうし、千屋ちや牛馬市ぎゅうばいちをつくりました。
 こうした苦労くろうにより、天下てんか千屋牛ちやうしをつくりだし、千屋市場ちやしじょう繁栄はんえい貢献こうけんし「千屋牛ちやうし育成いくせい功労者こうろうしゃ」としていまもなお尊敬そんけいされています。

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