板倉勝静は文政6(1823)年、陸奥(今の福島県)で松平定信の孫として生まれました。 勝静が20歳の天保13(1842)年、備中松山藩第6代藩主の板倉勝職の養子となりました。勝職に深い恩恵を感じていた山田方谷は、勝静を将来の名君に育てることが藩主勝職に対する恩返しだと考え、勝静を教育しました。 勝職が病気で藩主を退いた後は備中松山藩第7代藩主となり、山田方谷に藩財政の一切を任される役である元締役兼吟味役を命じます。命令した藩政改革の成功が評価され、奏者番(江戸城の武家の礼式を管理する役職)となり後に寺社奉行(寺社を管理する役職)にもなりました。 寺社奉行に就任した勝静は、安政の大獄が起き、大老の井伊直弼に反対の意見を述べたため、一旦はやめさせられましたが、桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されると、再び奏者番と寺社奉行を任せられ、翌年には老中に昇格しました。 第15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、大政奉還の実現にも力を尽くしました。大政奉還の建白書の草案を作ったのは山田方谷だといわれています。
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