流域キッズ

板倉いたくら 勝静かつきよ

活躍かつやくしたとし:1823~1889年

関係かんけいする市町しまち高梁市たかはしし

なにをしていた人?:備中松山藩主びっちゅうまつやまはんしゅ

関係かんけいのある情報じょうほう

備中松山城びっちゅうまつやまじょう歴史美術館(文化交流館れきしびじゅつかん ぶんかこうりゅうかん山田方谷やまだほうこく

 板倉勝静いたくらかつきよ文政ぶんせい6(1823)ねん陸奥むついま福島県ふくしまけん)で松平定信まつだいらさだのぶまごとしてまれました。
 勝静かつきよが20さい天保てんぽう13(1842)ねん備中松山藩第びっちゅうまつやまはんだい代藩主だいはんしゅ板倉勝職いたくらかつつね養子ようしとなりました。勝職かつつねふか恩恵おんけいかんじていた山田方谷やまだほうこくは、勝静かつきよ将来しょうらい名君めいくんそだてることが藩主勝職はんしゅかつつねたいする恩返おんがえしだとかんがえ、勝静かつきよ教育きょういくしました。
 勝職かつつね病気びょうき藩主はんしゅ退しりぞいたあと備中松山藩第びっちゅうまつやまはんだい代藩主だいはんしゅとなり、山田方谷やまだほうこく藩財政はんざいせい一切いっさいまかされるやくである元締役兼吟味役もとじめやくけんぎんみやくめいじます。命令めいれいした藩政改革はんせいかいかく成功せいこよう評価ひょうかされ、奏者番そうじゃばん江戸城えどじょう武家ぶけ礼式れいしき管理かんりする役職やくしょく)となりのち寺社奉行じしゃぶぎょう寺社じしゃ管理かんりする役職やくしょく)にもなりました。
 寺社奉行じしゃぶぎょう就任しゅうにんした勝静かつきよは、安政あんせい大獄たいごくき、大老たいろう井伊直弼いいなおすけ反対はんたい意見いけんべたため、一旦いったんはやめさせられましたが、桜田門外さくらだもんがいへん大老たいろう井伊直弼いいなおすけ暗殺あんさつされると、ふたた奏者番そうじゃばん寺社奉行じしゃぶぎょうまかせられ、翌年よくねんには老中ろうじゅう昇格しょうかくしました。
 だい15代将軍徳川慶喜だいしょうぐんとくがわよしのぶからあつ信任しんにんけ、大政奉還たいせいほうかん実現じつげんにもちからくしました。大政奉還たいせいほうかん建白書けんぱくしょ草案そうあんつくったのは山田方谷やまだほうこくだといわれています。

無断むだん画像等がぞうなど複製ふくせい転載てんさい加工かこうすることをきんじます。