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留岡とめおか 幸助こうすけ

活躍かつやくしたとし:1864~1934年

関係かんけいする市町しまち高梁市たかはしし

なにをしていた人?:宗教家しゅうきょうか

関係かんけいのある情報じょうほう

高梁基督協会たかはしきりすときょうかい社会福祉しゃかいふくし先駆者せんくしゃ 留岡幸助とめおかこうすけ

 留岡幸助とめおかこうすけは、元治げんじがん(1864)ねん高梁市新町たかはしししんまちまれました。
 その南町みなみまち米屋こめやいとな吉田家よしだけ養子ようしとなりましたが、行商中ぎょうしょうちゅうんだ谷川たにがわみず原因げんいんはいジストマという病気びょうきになり、治療ちりょうのため、中間町ちゅうげんまち医師いしでキリスト教信者きょうしんじゃ赤木蘇平あかぎそへいいえ生活せいかつしました。このとき、赤木医師あかぎいしひとがらに影響えいきょうけ、キリスト教信者きょうしんじゃとなり、明治めいじ15(1882)ねん高梁たかはしキリスト教会きょうかい洗礼せんれいけました。
 その同志社大学どうししゃだいがく入学にゅうがくし、卒業後そつぎょうご兵庫県福知山ひょうごけんふくちやま教会きょうかい牧師ぼくしとなりました。
 明治めいじ24(1891)ねんに、北海道空知集治監ほっかいどうそらちしゅうじかん現在げんざい刑務所けいむしょ)で教誨師きょうかいし(よいかんがえをおしえるひと)になり、4年間勤ねんかんつとめましたが、わるいことをした原因げんいんは、どものころにあることに気付きづき、不良少年ふりょうしょうねんばれるひとたちをなおらせるための教育きょういく必要ひつようであるとつよかんじました。
 その、アメリカで刑務所制度けいむしょせいど研究けんきゅうしたあと犯罪はんざいなどの不良行為ふりょうこういをしたり、するおそれがある児童じどうや、家庭環境等かていかんきょうなどから生活指導せいかつしどうようする児童じどう入所にゅうしょまたは通所つうしょさせ、自立じりつ支援しえんする施設しせつである「家庭学校かていがっこう」を東京とうきょうにつくりました。
 生涯しょうがいにわたり、少年感化しょうねんかんか監獄改良かんごくかいりょう教化事業きょうかじぎょう社会事業しゃかいじぎょう発展はってんくした「岡山四聖人おかやまよんせいじん」の一人ひとりとして有名ゆうめいです。

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