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美袋本陣跡

関係かんけいする市町しまち総社市そうじゃし

みなぎほんじんあと

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】総社市美袋【時代】江戸時代
【指定年月日】昭和41年4月14日【所有】岡山西農業協同組合

この史跡しせきについて

 美袋みなぎ江戸時代えどじだい松山往来まつやまおうらい宿場町しゅくばまちとしてさかえました。松山往来まつやまおうらいとは、山陽道さんようどう板倉宿いたくらじゅく(げん岡山おかやま北区きたく吉備津きびつあざ板倉いたくら)からかれ、松山城下まつやまじょうか(げん高梁市たかはしし内山下うちさんげ)にたっするみちです。この宿場しゅくばで、諸大名しょだいみょうなどが宿泊しゅくはくした本陣ほんじんは、大庄屋だいしょうや田辺家たなべけでした。
 明治めいじ(1868)元年がんねんには、官軍方かんぐんがた岡山藩おかやまはん幕府方ばくふがた松山藩まつやまはん鎮定ちんていするさいに、この美袋みなぎ本陣ほんじん松山城まつやまじょうわたしについての会談かいだんがもたれました。明治維新めいじいしんは、地方制度改革ちほうせいどかいかくによって戸長こちょうばれる役人やくにん執務しつむした戸長役場こちょうやくばとなり、その村の役場やくばとして使用しようされました。戦後せんご建物たてものなどはこわされ、現在げんざい岡山おかやま西にし農業のうぎょう協同きょうどう組合くみあい昭和しょうわ支店してん事務所じむしょ店舗てんぽなどがっています。
 今は、かたわらにある標柱ひょうちゅう当時とうじおもこされるのみです。

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