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猿掛城跡

関係かんけいする市町しまち矢掛町やかげちょう

さるかけじょうせき

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】矢掛町横谷【時代】鎌倉時代~安土桃山時代
【指定年月日】平成8年4月1日【所有】国

この史跡しせきについて

 標高ひょうこう239mの本丸跡ほんまるあと南端みなみはしにあり、きたかってまるさんまる井戸いど大手門おおてもんよんまる馬場ばばまるろくまる大夫丸たゆうまる寺丸てらまるくだって平林口ひらばやしぐちいたります。
 築城年代ちくじょうねんだい庄家長しょういえなが元久げんきゅう2(1205)年、源平合戦げんぺいがっせん軍功ぐんこうにより地頭じとうとして赴任ふにんし、そのあともなく、山上さんじょう土塁どるいきずいたのがはじまりとかんがえられています。 庄氏しょうし松山城まつやまじょう(高梁たかはし)に本城ほんじょううつした(あと毛利元就もうりもとなり四男よんなん毛利元清もうりもときよ領主りょうしゅとして猿掛城さるかけじょう入城にゅうじょうします。
 天正てんしょう10(1582)年の備中高松城水攻びっちゅうたかまつじょうみずぜめさいには、この猿掛城さるかけじょう毛利輝元もうりてるもと本陣ほんじんとして歴史れきしのこしました。よく天正てんしょう11年には毛利元清もうりもときよ茶臼山城ちゃうすやまじょう(東三成ひがしみなり)にうつったため、やく400年間ねんかんつづいたこの山城やまじろ実質上じっしつじょう廃城はいじょうとなりました。

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