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古川古松軒の墓

関係かんけいする市町しまち総社市そうじゃし

ふるかわこしょうけんのはか

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】総社市新本【時代】江戸時代
【指定年月日】昭和40年1月20日【所有】宅源寺

この史跡しせきについて

 江戸えど中期ちゅうき地理ちり学者がくしゃ古川ふるかわ古松軒こしょうけんは、享保きょうほ11(1726)年、橋本家はしもとけ別家べっけにあたる橋本はしもと護次もりつぐの子として新本しんぽんで生まれ、たつ、または正辰まさたつ通称つうしょう平次兵衛へいじべえといいました。古松軒こしょうけんは、自学自習じがくじしゅう地理ちり歴史れきしを学び、測量術そくりょうじゅつちょうじていました。諸国しょこく周遊しゅうゆうし、山陽さんよう九州きゅうしゅう紀行文きこうぶん西遊雑記さいゆうざっき』、東北とうほく蝦夷えぞ紀行文きこうぶん東遊雑記とうゆうざっき』をまとめ、地理ちり風俗ふうぞく物産ぶっさんとうや、一般民衆いっぱんみんしゅう生活状態せいかつじょうたいつたえました。
 また、寛政かんせい改革かいかくおこなった老中ろうじゅう松平定信まつひらさだのぶ信任しんにんて、幕府ばくふ命令めいれいにより『武蔵五郡むさしごぐん』、『四神地名録ししんちめいろく』を作成さくせいしました。晩年ばんねん岡田藩おかだはんかえり、岡田おかだ藩主はんしゅから苗字みょうじ帯刀たいとうゆるされました。文化ぶんか4(1807)年に亡くなり、宅源寺たくげんじわき橋本家はしもとけ墓地ぼちほうむられ、「古松軒こしょうけん夫婦ふうふはか」ときざまれた自然しぜんせきの大きな墓石はかいしがたてられました。

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