流域キッズ

良寛りょうかん

活躍かつやくしたとし:1758~1831年

関係かんけいする市町しまち倉敷市くらしきし

なにをしていた人?:僧侶そうりょ歌人かじん

関係かんけいのある情報じょうほう

円通寺えんつうじ

 良寛りょうかんは、宝暦ほうれき8(1758)ねんいま新潟県出雲崎町にいがたけんいずもざきまちまれました。
 11さい明和めいわ5(1768)ねんから数年間すうねんかん三峰館さんほうかんという大森子陽おおもりしよう北越ほくえつ四大儒しだいじゅ一人ひとりとたたえられた漢学者かんがくしゃ)のじゅく漢学かんがく基礎きそまなびました。
 名主めいしゅであるちち見習みならいとしてはじめた仕事しごと失敗しっぱいし、おおきな挫折を経験ざせつ けいけんした良寛りょうかんは18さい安永あんえい4(1775)ねん突然家出とつぜんいえでし、子供こどもころ勉学べんがくにはげんだ曹洞宗光照寺そうとうしゅうこうしょうじ修行しゅぎょうをしました。そのときに「良寛りょうかん」とごうし(名乗なのり)ました。
 安永あんえい8(1779)ねん円通寺えんつうじ国仙和尚こくせんおしょう越後えちごおしいてめぐりあるいていたときに光照寺こうしょうじへも立ち寄た よりましたが、良寛りょうかん国仙こくせんを「生涯しょうがい」とさだめ、国仙こくせんとともに玉島たましまうつりました。以後いご、10数年間すうねんかんきびしい修行しゅぎょうえ、寛政かんせい2(1790)ねん国仙こくせんより僧侶そうりょ資格しかくをもらいましたが、てら住職じゅうしょくとなることをよしとせず、74さい生涯しょうがいえるまで托鉢僧たくはつそうとしてごしました。
 漢詩人かんしじん和歌作者わかさくしゃとしても、漢詩約かんしやく450しゅ和歌わかは1400しゅあまりがられ日本にほん代表だいひょうする詩人しじんといわれています。
 良寛りょうかん子供こども純真じゅんしんこころこそがまことほとけこころとして、子供こどもとの交流こうりゅうかしませんでしたが、とく手毬てまりつねふところれて持ち歩も  あるいていたそうで、良寛りょうかん象徴しょうちょうするアイテムともいえます。
 むずかしい説法せっぽう民衆みんしゅうたいしてはおこなわず、みずからの質素な生活しっそ せいかつ示す事しめ こと簡単な言葉かんたん ことばによって一般庶民いっぱんしょみんわかやす仏法ぶっぽう一方いっぽうで、どもたちをあいし、いっしょにあそぶその姿勢しせいは、たくさんの人々ひとびと共感きょうかん信頼しんらいることになり、いまでもどもから大人おとなまで「良寛りょうかんさん」としたしまれ尊敬そんけいされています。

無断むだん画像等がぞうなど複製ふくせい転載てんさい加工かこうすることをきんじます。