阪谷朗廬は、文政5(1822)年、今の井原市美星町に生まれました。
父が徳川幕府の役人になり大阪に住んでいたため、6歳の時、母につれられ父のもとに行き、奥野小山について勉強し、のちに、大塩中斎の塾に入って勉強しました。さらに11歳の時、江戸に行き、昌谷精渓と古賀侗庵にも学びました。
26歳の時、病床にあった母親の世話をするため帰郷しました。このころ、あちこちの大名に招かれましたが、母のことを心配してすべて断りました。
そして、嘉永4(1851)年に、今の井原市芳井町簗瀬に桜渓塾をつくり、人々に学問を教えました。
嘉永6(1853)年に、領主である一橋家の代官友山勝次に招かれて、学校を開きました。これが興譲館(後の興譲館高等学校)です。朗廬は興譲館で15年間、多くの人々に学問を教えました。はるばる東北や九州からも教えを受けに来るほどで、多いときには100人を超えたそうです。
慶応2(1866)年には、将軍慶喜にまねかれて、京都の学問所で講義しました。朗廬は、「学問は単に知識を身につけるだけでなく、人の生きる道を学ぶことである」と説きました。この教えはのちの世に引き継がれていき、郷土はもとより近代日本の発展に貢献した有能な人材を多く輩出しました。
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