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経山城跡

関係かんけいする市町しまち総社市そうじゃし

きょうやまじょうあと

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】総社市黒尾【時代】戦国時代~安土桃山時代
【指定年月日】平成11年4月28日【所有】総社市

この史跡しせきについて

 吉備高原きびこうげん南端なんたん位置いちする、標高ひょうこう372.7mの山頂さんちょうきずかれた山城やまじろです。平安時代へいあんじだい、この一帯いったい山岳さんがく仏教ぶっきょう霊場れいじょうとしてさかえ、多数たすう経塚きょうづかきずかれたことから、このしろ経山城きょうやまじょうばれています。
 経山城きょうやまじょう三方さんぽうけわしい谷にかこまれており、しろはいるには北からの一本道いっぽんみちというめにくい地形ちけいとなっています。小型こがたではありますが、石垣いしがき土塁どるい空掘からぼりなどで区画くかくした堅固けんこなつくりになっています。
 『備中府志びっちゅうふし』によると、天文てんぶん年間ねんかん(1532年~1555年)に大内義隆おおうちよしたかによってきずかれたとされています。後に毛利氏もうりし所有しょゆうとなり、毛利氏もうりし配下はいかしょうであった小早川隆景こばやかわたかかげがこれを修理しゅうりし、二階堂氏にかいどうし中島氏なかしまししろまもらせました。このしろをめぐる攻防こうぼうは大きく2回あり、1回目は天文てんぶん12(1543)年のことで、出雲いづも富田城とみやじょう合戦かっせん手薄てうすになった備中びっちゅうろうと、播磨はりま赤松氏あかまつしめてきました。しかし、攻撃こうげき準備中じゅんびちゅう将軍しょうぐん足利氏あしかがしからほかの武将ぶしょう追討ついとうするよう命令めいれいが下り、じんきあげました。次いで2回目は、元亀げんき2(1571)年のことで、出雲いづも尼子氏あまごしによって経山城きょうやまじょう包囲ほういされました。しかし、小勢こぜいしろまもり、夜陰やいんじょうじて火をかけ、尼子勢あまごぜいをしりぞけました。このしろ堅固けんこさを物語ものがたるものです。

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