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大山おおやま 康晴やすはる

活躍かつやくしたとし:1923~1992年

関係かんけいする市町しまち倉敷市くらしきし

なにをしていた人?:将棋棋士しょうぎきし

関係かんけいのある情報じょうほう

大山名人記念館おおやまめいじんきねんかん

 大山康晴おおやまやすはるは、大正たいしょう12(1923)ねん今の倉敷市西阿知町いま くらしきしにしあちちょうまれました。
 5歳頃さいごろから将棋しょうぎおぼええ、8さいのころに平井長之丞二段ひらいながのじょうにだん(アマチュア)の指導しどうけました。そのあと小学校卒業しょうがっこうそつぎょう同時どうじ大阪おおさか同郷どうきょう木見金治郎九段きみきんじろうくだん内弟子うちでしになります。
 昭和しょうわ15(1940)ねんにプロとしてみとめられる四段よんだん昇段しょうだんし、軍隊ぐんたい経験けいけんしたあと、昭和しょうわ22(1947)ねんには七段ななだん昇段しょうだんしました。
 昭和しょうわ25(1950)ねん木村名人きむらめいじんとの対局たいきょく勝利しょうりし、関西かんさい棋士きしとしてはじめて名人めいじんとなると、昭和しょうわ29(1954)ねんには出場全棋戦しゅつじょうぜんきせん名人・王将・王座・全八段戦めいじん おうしょう おうざ ぜんはちだんせん勝抜戦かちぬきせんNHKえぬえいちけーはい早指はやざ王位おうい)を制覇せいはし、つづいて5期連続名人位きれんぞくめいじんい保持ほじし、15世永世名人せいえいせいめいじん資格しかくました。
 昭和しょうわ32(1957)ねん升田幸三ますだこうぞうけて無冠むかんになりますが、すぐに王将位おうしょうい奪い返うば かえし、2年後ねんごにははつ四冠王よんかんおう名人・王将・九段・王位めいじんおうしょう くだん おうい)、昭和しょうわ37(1962)ねん棋聖戦きせいせん誕生たんじょうすると五冠王ごかんおうにもなりました。
 「けの達人たつじん」として一時代いちじだいをきずき、「まもりのこまうつくしい」など、けにまつわる名言めいげん多く残おお のこしている大山康晴おおやまやすはる名人通算めいじんつうさん18歴代最多れきだいさいたであり、タイトル獲得数通算80期かくとくすうつうさん き歴代2位れきだい い成績せいせきです。
 その資格しかく取得しゅとくしたものは、そのずっと「永世えいせい~」と名乗なのることができる「永世称号えいせいしょうごう」として、十五世名人じゅうごせいめいじん永世十段えいせいじゅうだん永世王位えいせいおうい永世棋聖えいせいきせい永世王将えいせいおうしょういつつをもっています。
 中原誠なかはらまこと第16世永世名人だい せいえいせいめいじん)によって次々つぎつぎとタイトルをうばわれましたが、晩年ばんねんやまいともたたかいながらも、A級に在位きゅう ざいいしたまま平成へいせい4(1992)年亡ねんなくなりました。
 東京とうきょう大阪両将棋会館おおさかりょうしょうぎかいかん建設けんせつ尽力じんりょくするなど、日本の棋界にほん きかい発展はってんにもとても貢献こうけんしました。

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