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戸川とがわ 安宅やすいえ

活躍かつやくしたとし:1855~1924年

関係かんけいする市町しまち早島町はやしまちょう

なにをしていた人?:領主りょうしゅ教育者きょういくしゃ

関係かんけいのある情報じょうほう

早島町戸川家記念館はやしまちょうとがわけきねんかん

 戸川安宅とがわやすいえは、安政あんせい2(1855)ねん江戸えど旗本早島戸川家はたもとはやしまとがわけ12だい戸川安行とがわやすゆきとして牛込原町うしごめはらまちまれた。
 明治元めいじがん(1868)ねんいえぎ、早島戸川家はやしまとがわけ13代目だいめ領主りょうしゅとなりましたが、明治めいじ2(1869)年6月ねん がつ版籍奉還はんせきほうかん土地とち人民じんみん朝廷ちょうていかえすこと)により領地りょうちうしなったため、以後いご新政府しんせいふからあたえられた代替屋敷だいたいやしきみ、慶應義塾けいおうぎじゅくなどで勉学べんがくはげみました。
 明治めいじ7(1874)年12月6日ねん がつ か、キリストきょう入信にゅうしんし、日本基督教会麹町教会にほんきりすときょうかいこうじまちきょうかい(いま日本基督教団高輪教会にほんきりすときょうだんたかなわきょうかい)の牧師ぼくしとなり、伝道でんどうおこなうとともにキリスト教関係きょうかんけい書籍・冊子しょせき さっしきました。
 文学ぶんがくにも広く深ふろ ふか知識ちしきち、明治めいじ36(1903)ねん創刊そうかんされた『文學界ぶんがくかい』では、七五調ひちごちょう五七調ごひちちょうぜた桂川かつらがわ情死じょうし吊う歌とむら うた)」がたか評価ひょうかされ、「残花ざんか」という名前なまえで、明治めいじから大正たいしょうにかけての日本にほん文壇ぶんだん大活躍だいかつやくしました。
 また、勝海舟かつかいしゅう旧幕臣きゅうばくしん手を借て かりて、雑誌ざっし旧幕府きゅうばくふ』を刊行かんこうし、旧幕府時代きゅうばくふじだい回想や論考かいそう ろんこう文芸作品ぶんげいさくひんなどを掲載けいさいするなど、出版活動しゅっぱんかつどうにもちかられました。
 一方いっぽうで、日本女子大学にほんじょしだいがく創立そうりつくわわり、のちに教授きょうじゅ、または学習院大学がくしゅういんだいがく教授きょうじゅつとめるなど、教育界きょういくかいにも大変貢献たいへんこうけんをしました。

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