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赤沢あかざわ 文治ぶんじ

活躍かつやくしたとし:1814~1883年

関係かんけいする市町しまち浅口市あさくちし

なにをしていた人?:宗教家しゅうきょうか

関係かんけいのある情報じょうほう

金光教祖こんこうきょうそ生家せいか
立教聖場りっきょうせいば
小野家庄屋跡おのけしょうやあと
金光教本部こんこうきょうほんぶ

赤沢文治380
赤沢文治 
肖像しょうぞうについては、そのおしえによりのこされておりません。
 赤沢文治あかざわぶんじは、文化ぶんか11(1814)ねんいま浅口市金光町占見あさくちしこんこうちょううらみ農家のうか次男じなんまれました。12さいいま金光町こんこうちょう大谷おおたに農民川手家のうみんかわてけ養子ようしとなりますが、養父ようふ遺言ゆいごん赤沢姓あかざわせいいえぎました。
 実直じっちょく勤勉きんべんであったため、家運かうん向上こうじょうし、社会的信用しゃかいてきしんようましたが、家族かぞくつづくなどの苦難くなんい、自身じしんも42さいのとき「のどけ」というのどのおおきな病気びょうきにかかり、直面ちょうくめんしました。そのときに、あらたなかみ出会であい、そこから独自どくじ信仰生活しんこうせいかつはじめることとなりました。
 当時とうじ、たたりがみとされていた金神こんじんかみとし、民間信仰みんぞくしんこう神々かみがみをまとめた「天地金乃神てんちかねのかみ」のめいにより、安政あんせい6(1859)ねん人の願ひと ねがいを神に祈かみ いのり、神の願かみ ねがいを人に語ひと かたるという取次とりつぎ仕事しごとはじめ、のこりの半生はんせい信仰しんこうささげました。
 自分じぶん伝記でんきである『金光こんこう大神だいじんおん覚書おぼえがき』をはじめ、『おらせ事覚帳ごとおぼえちょう』などをいています。金光教こんこうきょうは、天理教てんりきょう黒住教くろずみきょうとともに幕末三大新興宗教ばくまつさんだいしんこうしゅうきょうにあげられます。