丸川 松隠
活躍した年:1758~1831年
関係する市町:新見市
何をしていた人?:漢学者
関係のある情報
丸川松隠は、宝暦8(1758)年、今の倉敷市西阿知町に生まれました。
母の教えもあり、幼少から学問に精を出し、15歳で総社の亀山如水につき朱子学を学び、22歳になると、讃岐の尾池薫陵について医学を学びました。30歳で父母を亡くした後、33歳の時に大阪の中井竹山の塾に入門し、この塾で佐藤一斎と共に学び、英傑として天下に認められました。
その松隠の名が幕府にも聞こえ、老中松平定信から江戸学問所昌平校の教授に招かれましたが、新見藩のお殿様へのご恩が忘れられず、幕府の申し出を断りました。寛政5(1793)年、松隠が36歳の時に新見藩主の関長誠侯にお会いし、新見藩の藩校である思誠館の先生となり、学校を良くしていくために学制改革を行い、学規(ルール)を考えました。この当時に、備中松山藩の藩政改革を行い備中聖人と称された山田方谷もここで学んでいます。
以後18年間、長誠侯とは君臣を越えた人間同士の関係が続きました。
松隠は他にも回陽舗という塾をつくり、たくさん生徒を集め、熱心に学問を教えました。松隠の生徒には、山田方谷のほか、幕末の大変な時期に藩を支えてきた、渡辺松窩や木山楓渓などがいます。
また、松隠は、教育ばかりでなく、藩の政治に参加し、藩政の指南書である「型典」を書き記し、藩の政治を改革しました。それ以後はその「型典」を使って藩の政治が行われるようになり、新見藩の政治に大変貢献しました。
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