吉備真備は、古代吉備の豪族であった下道氏の出身で名は下道真備。現在の倉敷市真備町の町名は、彼の出身地であることに由来します。
吉備真備は養老元(717)年、23歳のときに阿倍仲麻呂らとともに遣唐留学生として唐に渡り、儒学、天文学、音楽、兵学などを学んだ後、天平7(735)年に多くの 典籍、武具、楽器を携えて帰国しました。わが国における「囲碁の元祖」とも言われています。
天平18(746)年、吉備朝臣の姓をもらいました。天平勝宝3(751)年、57歳で遣唐副使となり、翌年に再び唐に渡りました。
聖武天皇の命を受け、唐の許可をもらうことなく秘密裏に鑑真(唐の僧侶、日本の律宗の開祖)をつれて天平勝宝5(753)年に帰国しています。その成果にも関わらず、帰国後は九州にしばらくいることとなりますが、天平宝字8(764)年、70歳のときに造東大寺長官に任命されて平城京へ帰りました。同じ年の恵美押勝の乱で功績をあげ、天平神護2(766)年に右大臣となり律令の刪定に大いに貢献しました。
遣唐使として二度にわたり入唐(足かけ18年間滞在)し、唐文化の輸入につとめ、その知識を政治に反映させていった功績は大きく、また、武器、兵学にもすぐれ、軍事改革にも携わっていたと考えられています。
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