安原備中守は、今の早島町早島に生まれました。 天正ごろに石見銀山の経営をしていましたが、新しい銀の鉱脈を掘り当て、釜屋間歩を発見し、一躍石見銀山繁栄の時代を築いたといわれています。その功績により徳川家康から「備中守」の称号(地位と代々使える名)とともに、家康の着用していた羽織と扇などを与えられました。 この莫大なお金を使って、出身地である早島の鶴崎神社の再興のため積極的に寄付をし貢献していたと考えられます。 また、備中一宮である吉備津神社へも信仰を厚くしていて、慶長8(1603)年の御幣串朱銘(祭の道具)には、「早島塩津村住人安原田兵衛草壁朝臣知種」と記されています。さらに、慶長17(1612)年に御釜殿を立て直した際にも力を尽くしました。 遠く離れた故郷への熱い思いと厚い信仰心をもちながら、生涯の大半を石見銀山の経営に費やした備中守の徳を伝えるために寛永12(1635)年に立てられたされた供養塔が、早島町塩津には現在も残っています。
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