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安原備中守やすはらびっちゅうのかみ

活躍かつやくしたとし:?-1623年

関係かんけいする市町しまち早島町はやしまちょう

なにをしていた人?:鉱山師こうざんし

関係かんけいのある情報じょうほう

安原備中守供養塔やすはらびっちゅうのかみくようとう石見銀山いわみぎんざん再興さいこうした安原伝兵衛やすはらでんべえ

 安原備中守やすはらびっちゅうのかみは、いま早島町早島はやしまちょうはやしままれました。  天正てんしょうごろに石見銀山いわみぎんざん経営けいえいをしていましたが、あたらしいぎん鉱脈こうみゃく掘り当ほ あて、釜屋間歩かまやまぶ発見はっけんし、一躍石見銀山繁栄いちやくいわみぎんざんはんえい時代じだいきずいたといわれています。その功績こうせきにより徳川家康とくがわいえやすから「備中守びっちゅうのかみ」の称号しょうごう地位ちい代々使だいだいつかえる)とともに、家康いえやす着用ちゃくようしていた羽織と扇はおり おうぎなどをあたえられました。  この莫大ばくだいなおかね使つかって、出身地しゅっしんちである早島はやしま鶴崎神社つるさきじんじゃ再興さいこうのため積極的せっきょくてき寄付きふをし貢献こうけんしていたとかんがえられます。  また、備中一宮びっちゅういちのみやである吉備津神社きびつじんじゃへも信仰しんこうあつくしていて、慶長けいちょう8(1603)ねん御幣串朱銘(ごへいぐししゅめいまつり道具どうぐ)には、「早島塩津村住人安原田兵衛草壁朝臣知種はやしましおづむらじゅうにんやすはらたひょうえくさかべあそみともたね」としるされています。さらに、慶長けいちょう17(1612)ねん御釜殿おかまでんなおしたさいにもちからくしました。  とおはなれた故郷こきょうへの熱い思あつ おもいとあつ信仰心しんこうしんをもちながら、生涯しょうがい大半たいはん石見銀山いわみぎんざん経営けいえいついやした備中守びっちゅうのかみとくつたえるために寛永かんえい12(1635)ねんてられたされた供養塔くようとうが、早島町塩津はやしまちょうしおづには現在げんざいのこっています。

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