小川郷太郎は、明治9(1876)年、今の里庄町新庄で村山菊蔵の長男として生まれました。後に岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となりました。
東京帝国大学政治学科を一番の成績で卒業したため、天皇から銀時計をいただき、その後、大蔵省に入省しました。
明治37(1904)年には、京都帝国大学の先生として迎えられ、翌年には助教授となりました。アメリカやヨーロッパに留学後、大正2(1913)年、京都帝国大学経済学部長に就任しました。
この頃から政治の世界に進出し、京都市から衆議院議員総選挙に立候補し当選しました。その後、大正13(1924)年には岡山県から立候補し当選しました。
民政党に所属して、党内で財政にとても詳しい存在として活躍し、広田内閣のとき商工大臣、近衛内閣のとき鉄道大臣となりました。このときに本州と九州を結ぶ関門トンネルを開通させました。
第二次世界大戦のときには、ビルマ政府の最高顧問に就任し、現地の財政立て直しの指導にあたりましたが、帰国途中の昭和20(1945)年、東シナ海において乗船していた阿波丸がアメリカ潜水艦の攻撃で撃沈(阿波丸事件)し、享年69才で亡くなりました。
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