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池田いけだ 遥邨ようそん

活躍かつやくしたとし:1895~1988年

関係かんけいする市町しまち倉敷市くらしきし

なにをしていた人?:日本画家にほんがか

関係かんけいのある情報じょうほう

倉敷市立美術館くらしきしりつびじゅつかん顕彰記念室けんしょういねんしつ(池田遙邨いけだようそん坂田一男さかたかずお)小野竹喬おのちっきょう

 池田遥邨いけだようそんは、明治めいじ28(1895)ねん岡山市門田屋敷おかやましかどたやしき両親りょうしん当時とうじのおうち)のまれとされています。どものころから画家がかになりたくて、尋常高等中学校じんじょうこうとうちゅうがっこう現在の高校げんざい こうこう)の入試にゅうしけなかったほどえがくことがきでした。  明治めいじ43(1910)ねんに15さい大阪おおさかて、洋画家ようがか松原三五郎まつばらさんごろう天彩画塾てんさいがじゅくまなび、大正たいしょう3(1914)ねんだい回文部省美術展覧会かいもんぶしょうびじゅつてんらんかい文展ぶんてん)に出展しゅってんした「みなとのくも」が初入選はつにゅうせんしました。一方いっぽうで、笠岡出身かさおかしゅっしん日本画家にほんがか小野竹喬おのちっきょう出会であい、「絵の中え なか主観しゅかんれてみては」と助言じょげんされ、日本画にほんが転身てんしんしました。大正たいしょう8(1919)ねん竹内栖鳳たけうちせいほう画塾がじゅく竹杖会ちくじょうかい」で熱心ねっしん研究けんきゅうするとともに、第1回帝国美術院展覧会だい かいていこくびじゅついんてんらんかい帝展ていてん)で「南郷の八月なんごう  はちがつ」が入選にゅうせんして日本の絵画にほん  かいが世界せかいにデビューしました。しかし、関東大震災かんとうだいしんさい痛々いたいたしいありさまをスケッチした「災禍の跡さいか  あと」は画壇から認がだん    みとめられず、第5回帝展だい かいていてん落選らくせんとなってしまいました。  昭和しょうわはいると大和絵や南画やまとえ  なんがなどの模写に励もしゃ  はげんで作風さくふう一変いっぺんさせました。大和絵やまとえ新解釈しんかいしゃくにたった清新な作風せいしん  さくふうによって、遙邨ようそん再び画壇ふたた  がだんみとめられました。江戸えど浮世絵師うきよえし歌川広重うたがわひろしげにならって東海道とうかいどうあるいて「昭和東海道五十三次しょうわとうかいどうごじゅうさんつぎ」を制作せいさくするなど、日本中を旅にほんじゅう たびしました。  さらに戦後は装飾性せんご そうしょくせいやユーモアに富んだ独自と    どくじ表現に到達ひょうげん  とうたつし、風景画ふうけいが独自の画風どくじ  がふう切り開き  ひらきました。「幻想げんそう明神礁みょうじんしょう」や「森の唄もり  うた」はこの頃の作品ころ さくひんです。風景ふうけい狐や狸きつね  たぬきなどの動物どうぶつきこんだ遙邨芸術ようそんげいじゅつのトレードマークともえます。  創作意欲そうさくいよく晩年ばんねんになってもおとろえず、89さいから、俳人・種田山頭火はいじん たねださんとうか世界せかいえがいた「山頭火さんとうかシリーズ」に取組とりくみ、遙邨ようそん代表的連作だいひょうてきれんさくとなっています。

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