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満谷みつたに 国四郎くにしろう

活躍かつやくしたとし:1874~1936年

関係かんけいする市町しまち総社市そうじゃし

なにをしていた人?:洋画家ようがか

関係かんけいのある情報じょうほう

倉敷市立美術館くらしきしりつびじゅつかん ・大原美術館おおはらびじゅつかん堀和平ほりわへい ・大原孫三郎おおはらまごさぶろう

 満谷国四郎みつたにくにしろうは、明治めいじ7(1874)ねんいま総社市門田そうじゃしもんでまれました。  従兄いとこは、岡山洋画の先駆者おかやまようが せんくしゃられる堀和平ほりわへいで、どものころ堀家ほりけくたびに、和平の絵わへい えつよこころをうたれました。  岡山中学おかやまちゅうがくいま岡山朝日高等学校おかやまあさひこうとうがっこう在学中ざいがくちゅうに、洋画教師ようがきょうしだった松原三五郎まつばらさんごろうから洋画ようがならい、画才がさいみとめられて、17さいのときに画家がかをこころざして上京じょうきょうしました。 上京後じょうきょうご五姓田芳柳ごせだほうりゅう洋画家ようがか小山正太郎こやましょうたろう運営うんえいする画塾がじゅく油画修業あぶらえしゅぎょうはげみました。ここでかれは、写実的な画風しゃじつてき がふうにつけました。  明治めいじ31(1898)ねん油絵あぶらえ林大尉はやしたいい」を発表はっぴょうしましたが、明治天皇めいじてんのうがたまたま会場かいじょう見に来み こられ、その絵の前え   まえにしばらく立ち止た どまられ感激かんげきされ、大変褒たいへんほめられたため、その作品さくひん宮内省くないしょうわれました。また、明治めいじ32(1899)ねんに「妙義山みょうぎさん」という外務省がいむしょうに、明治めいじ33(1900)ねんには「尾道港おのみちこう」というふたた宮内省くないしょうわれました。  洋画家ようがかとして着実ちゃくじつ地位ちいきずいていった国四郎くにしろうですが、それに飽き足あ たらなかったかれは、明治めいじ44(1911)ねん大原孫三郎おおはらまごさぶろう援助えんじょでフランス留学りゅうがくをおこないました。 そのあいだに、ルノワール、セザンヌなどの影響えいきょうをうけ、それまでの写実的しゃじつてき画風がふうから、装飾的そうしょくてき線や色せん いろ重視じゅうしした画風がふうへとてんじました。 さらに4にわたり中国ちゅうごく旅行りょこうし、晩年ばんねんには日本的にほんてき伝統美でんとうび意識いしきした作風さくふうふかめてゆきました。

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