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秋庭あきば 重信しげのぶ

活躍かつやくしたとし:???~???年

関係かんけいする市町しまち高梁市たかはしし

なにをしていた人?:備中松山藩主びっちゅうまつやまはんしゅ

関係かんけいのある情報じょうほう

備中松山城びっちゅうまつやまじょう 

 鎌倉時代かまくらじだい武士ぶし備中国上房郡有漢郷びっちゅうこくじょうぼうぐんうかんごういま高梁市有漢町たかはししうかんちょう)の地頭じとう通称つうしょう三郎さぶろうといいました。  秋庭氏あきばしは、もとは相模さがみくにいま神奈川県かながわけん)の三浦氏みうらし一族いちぞくでしたが、重信しげのぶ承久じょうきゅう3(1221)ねんこった承久じょうきゅうらん手柄てがらて、備中国有漢郷びっちゅうこくうかんごういま高梁市有漢町たかはししうかんちょう)の地頭じとうとなりました。  『松山御城主歴代記まつやまごじょうしゅれきだいき』などの書物しょもつによると、延応えんおう2(1240)ねん備中路びっちゅうろにおける最大さいだい軍事拠点ぐんじきょてんである備中松山びっちゅうまつやま進出しんしゅつし、臥牛山がぎゅうざんみねひと大松山おおまつやましろきずいたとされています。これが備中松山城びっちゅうまつやまじょうのはじまりとなっています。  鎌倉時代かまくらじだい秋庭氏あきばし重信しげのぶから備中松山城主びっちゅうまつやまじょうしゅとして数代続すうだいつづいたあと一時城主いちじじょうしゅはなれますが、秋庭氏あきばし一族いちぞく(であろう人々ひとびと)が室町時代むろまちじだいにも城主じょうしゅとなり、なが繁栄はんえいしました。  鎌倉・室町時代かまくらむろまちじだいつうじて活躍かつやくをした秋庭氏あきばし関係かんけいのある遺跡いせき文化財ぶんかざいが、高梁市有漢町内たかはししうかんちょうない各所かくしょのこされています。

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