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薄田すすきだ 泣菫きゅうきん

活躍かつやくしたとし:1877~1945年

関係かんけいする市町しまち倉敷市くらしきし

なにをしていた人?:詩人しじん随筆家ずいひつか

関係かんけいのある情報じょうほう

薄田泣菫生家すすきだきゅうきんせいか

 薄田すすきだきゅうきんは、明治めいじ10(1877)ねんいま倉敷くらしき連島つらじまちょう連島つらじま西にし薄田すすきだまれました。
 明治めいじ24(1891)ねんいま県立けんりつ岡山おかやま朝日あさひ高校こうこう入学にゅうがくしましたが、体操たいそう得意とくいでなくて2ねん中退ちゅうたいしました。明治めいじ27(1894)ねん上京じょうきょうし、帝国ていこく図書館としょかんいま上野うえの図書館としょかん)で日本にほん文学ぶんがく漢文学かんぶんがく西洋せいよう文学ぶんがくすべむなど、独学どくがくまなびました。

 どものころから読書どくしょきで、すでにづくりをしていましたが、明治めいじ30(1897)ねん文芸ぶんげい雑誌ざっし新著しんちょ月刊げっかん』へ投稿とうこうしたちょうたん13ぺん花密蔵難見はなみつにしてみえがたし」がたか評価ひょうかされて詩壇しだんにデビューしました。このときはじめてきゅうきんごう(ペンネーム)をもちいました。

 その第一だいいち詩集ししゅうの『暮笛集ぼてきしゅう』(明治めいじ33(1900)ねん)をはじめ『ゆくはる』『しら玉姫たまひめ』『二十五にじゅうごげん』をかんこうし、めいじんなかちょうてんきわめました。

 明治めいじ39(1906)ねんした詩集『白羊宮ししゅう はくようきゅう』は、円熟えんじゅくむかえたきゅうきんすべてを集成しゅうせいしたもので、このあと徐々じょじょ活動かつどう場を詩ば しから散文さんぶんうつしていきましたが、新体しんたい文語ぶんご定型ていけい)を発展はってんさせたことがきゅうきんおおきな業績ぎょうせきでした。

 大正元たいしょうがん(1912)ねん大阪毎日新聞社おおさかまいにちしんぶんしゃ入社にゅうしゃ大正たいしょう5(1916)ねんから毎日新聞まいにちしんぶん連載れんさいした随筆ずいひつ茶話ちゃばなし」が好評こうひょうで、随想集ずいそうしゅう茶話ちゃばなし』を、大正たいしょうねんに『のち茶話ちゃばなし』を、さらに大正8年たいしょう ねんには『新茶話しんちゃばなし』を出版しゅっぱんしました。博識はくしきのうえ、じゅつたくみだったきゅうきんさくひんは、おおくのどくしゃりょうしました。

 学芸がくげいちょうとして芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけきくかんなど、名声めいせいだか作家さっか積極せっきょくてきつけし、文学ぶんがくかいはってんにもおおきくこうけんしました。

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