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西山にしやま 拙斎せっさい

活躍かつやくしたとし:1735~1798年

関係かんけいする市町しまち浅口市あさくちし

なにをしていた人?:漢学者かんがくしゃ

関係かんけいのある情報じょうほう

西山拙斎碑にしやませっさいひ

 西山拙斎にしやませっさいは、享保きょうほう20(1735)ねんいま浅口市鴨方町あさくちしかもがたちょう医者いしゃ恕玄じょげんとしてまれました。16さいのとき、大阪おおさか医学いがく古林見宜堂ふるばやしけんぎどうに、儒学じゅがく那波魯堂なばろどうおそわりました。
 ちち病気びょうきになったのでいったん帰郷ききょうしましたが、そのままくなったので喪に服も ふくしたあと、20さいのとき上京じょうきょうして古文辞学こぶんじがくまなび、30さいにして徂徠学そらいがく江戸中期えどちゅうき儒者荻生徂徠じゅしゃおぎゅうそらいとなえた儒学思想じゅがくしそう)のよくないところをかんじとって、先生せんせいである魯堂ろどうとともに朱子学しゅしがく勉強べんきょうするようになりました。明和元しょうわがん(1764)ねん朝鮮通信使ちょうせんつうしんし会談かいだんしたときに朱子学しゅしがく正学せいがくとなると確信かくしんしました。
 39さいのとき、故郷こきょう鴨方かもがたかえり、私塾しじゅく欽塾きんじゅく」をつくり、子弟してい教育きょういく専念せんねんしました。いろいろな大名だいみょうからまねかれましたが、病弱びょうじゃくであったことと、まれつき物事ものごとにとらわれるのを嫌う性格きら せいかくであったことが理由りゆうで、生涯しょうがいにわたって役人やくにんにはなりませんでした。
 当時全国的とうじぜんこくてき学風がくふうみだれているのをなげき、幕府ばくふ儒官じゅかんである柴野栗山しばのりつざん朱子学しゅしがく正学せいがくとする学制がくせい統一とういつき、 これが寛政かんせい2(1790)ねん老中松平定信ろうじゅうまつだいらさだのぶおこなった寛政改革かんせいかいかくひとつである「寛政異学の禁かんせいいがく きん」となりました。
 西山拙斎にしやませっさいは、「鴨方かもがたぎたるものがみっつある。拙斎せっさい索我さくが宮の石橋みや いしばし」とうたわれ、いまなお土地とち人々ひとびとからしたわれています。

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