流域キッズ

西林にしばやし 國橋こっきょう

活躍かつやくしたとし:1764~1828年

関係かんけいする市町しまち高梁市たかはしし

なにをしていた人?:国学者こくがくしゃ

関係かんけいのある情報じょうほう

福地ふくちのツバキ

 西林國橋にしばやしこっきょうは、明和めいわがん(1764)ねんいま高梁市落合町福地たかはししおちあいちょうしろち神主かんぬし西林玄蕃忠盛にしばやしげんばただもり次男じなんとしてまれました。
 国橋こっきょう青年期せいねんき神道しんどう国学こくがくまなんだあと京都きょうと国学こくがくまなびました。
 文化ぶんかがん(1804)ねん帰郷ききょうしたあとに、はは生家せいかであった日名村ひなむら現在げんざい成羽町上日名なりわちょうかみひな)で神官じんぐうつとめるとともに、近在きんざい子供こどもたちに国学こくがくおしえていました。國橋こっきょうはかねてから、岡山県おかやまけん備中地区びっちゅうちく農村のうそんえんじられていた荒神神楽こうじんかぐらが、基本的きほんてき芸能要素げいのうようそだけではつまらないとかんじていたため、国学こくがく素養そようれて『古事記こじき』や『日本書紀にほんしょき』に題材だいざいもとめた演劇風えんげきふう神話劇創作しんわげきそうさくみました。そうして誕生たんじょうしたのが「大蛇退治だいじゃたいじ」、「岩戸開きいわとびら」、「国譲くにゆずり」の三編さんぺん構成こうせいした「神代神楽じんだいかぐら」です。
 國橋こっきょう基礎きそつくった神代神楽じんだいかぐらは、その神楽面かぐらめん衣裳いしょうのはなやかさやうつくしさをきそうようにもなり、郷土芸能きょうどげいのうとしての備中神楽びっちゅうかぐら代表だいひょうするものになりました。

無断むだん画像等がぞうなど複製ふくせい転載てんさい加工かこうすることをきんじます。