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阿藤あとう 伯海はくみ

活躍かつやくしたとし:1894~1965年

関係かんけいする市町しまち浅口市あさくちし

なにをしていた人?:漢詩人かんしじん

関係かんけいのある情報じょうほう

阿藤伯海記念公園あとうはくみきねんこうえん

 阿藤伯海あとうはくみは、明治めいじ27(1894)ねんいま浅口市鴨方町あさくちしかもがたちょうまれました。
 大正たいしょう13(1924)ねん東京帝国大学哲学科とうきょうていこくだいがくてつがくか卒業そつぎょうしましたが、翌年よくねん京都帝国大学大学院きょうとていこくだいがくだいがくいんはいり、狩野直喜かのなおきのもとで中国哲学ちゅうごくてつがくまなびました。
 昭和しょうわ10(1935)年前後ねんぜんご明治大学めいじだいがく法政大学ほうせいだいがく中国文学ちゅうごくぶんがくおしええ、また戦時中せんじちゅうには第一高等学校だいいちこうとうがっこう漢文学かんぶんがくおしえましたが、昭和しょうわ19(1944)ねん、51さい先生せんせいをやめて、鎌倉かまくらから祖先代々そせんだいだい鴨方町かもがたちょう六条院ろくじょういんかえりました。そのときのことをんだに『離京りきょう』『帰田きでん』があります。
 帰京ききょうしてから21年間ねんかん旧宅きゅうたくしずかにらし、そのあいだはもっぱら漢詩かんし作成さくせい精進しょうじんしました。とくに生前最後せいぜんさいごいた『吉備公館址作きびこうかんしさく』は有名ゆうめいです。
 小田郡矢掛町三成おだぐんやかげちょうみつなり吉備大臣宮境内きびだいじんぐうけいだいに、花崗岩製かこうがんせいの「吉備公館址碑きびこうかんしひ」がそびえたっていますが、その『吉備公館址作きびこうかんしさく碑文ひぶん清書せいしょえたのは、くなる半日前はんにちまえであったそうです。
 また、詩集『大簡詩草ししゅう たいかんしそう』は、くなったあと教え子おし こ高木友之助たかぎとものすけ元中央大学総長もとちゅうおうだいがくそうちょう)のによって刊行かんこうされました。
 孤高ここうつらぬいた昭和しょうわ偉大いだい漢詩人かんしじん である阿藤伯海あとうはくみ顕彰けんしょうする「阿藤伯海記念公園あとうはくみきねんこうえん」が、まれたである浅口市鴨方町六条院東あさくちしかもがたちょうろくじょういんひがしにあります。

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