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馬越うまこし 恭平きょうへい

活躍かつやくしたとし:1844~1933年

関係かんけいする市町しまち井原市いばらし

なにをしていた人?:実業家じつぎょうか

関係かんけいのある情報じょうほう

芳井歴史民俗資料館よしいれきしみんぞくしりょうかん

 馬越恭平うまこしきょうへいは、天保てんぽう15(1844)ねんいま井原市木之子町いばらしきのこちょうまれました。
 興譲館こうじょうかん阪谷朗廬さかたにろうろのもとでまなび、大阪おおさか丁稚奉公でっちぼうこうしたのち、夜間学校やかんがっこう英語えいごまなび、明治めいじ6(1873)ねん先収会社せんしゅうがいしゃ旧三井物産きゅうみついぶっさん前身ぜんしんである会社かいしゃ)に入社にゅうしゃしました。この会社かいしゃ一時解散いちじかいさんすると、恭平きょうへいはいったん故郷こきょうかえり、ふるくなっていた自分じぶんいえなおし、両親りょうしん生活せいかつ安定あんてい見届みとどけてから、ふたた上京じょうきょうしました。
 そのあと旧三井物産きゅうみついぶっさん理事りじて、経営けいえいくるしくなっていた子会社こがいしゃ日本麦酒にほんビールいまのエビスビール)に派遣はけんされ、経営改善けいえいかいぜんたりました。やがて、社長しゃちょう就任しゅうにんすると、銀座ぎんざにビアホールをひらくなどビールをるためにいろいろなアイデアをして会社かいしゃ発展はってんさせました。また、ビール業界ぎょうかい再編さいへんにも取り組と くみ、渋沢栄一しぶさわえいいち当時とうじのサッポロビールの会長かいちょう)や内閣ないかくはたらきかけ、ビール業界ぎょうかい合併がっぺいすすめ、自身じしん経営けいえいしていた日本麦酒と大阪麦酒にほんビール おおさかビールいまのアサヒビール)、札幌麦酒さっぽろビールいまのサッポロビール)を合併がっぺいし、大日本麦酒だいにっぽんビール誕生たんじょうさせました。この大日本麦酒だいにっぽんビールは、当時とうじのビールシェアの79パーセントとなり、中国ちゅうごくへの販路拡大はんろかくだいにもつとめ、「東洋とうようのビールおう」とよいばれるまでになりました。
 地元じもとたいしても井笠鉄道いかさてつどう初代社長しょだいしゃちょう就任しゅうにんしたほか、郷土きょうど教育きょういく土木どぼくのために莫大ばくだい寄付きふおこない、井原いばら発展はってんにおおいに貢献こうけんしました。その代表的だいひょうてきなものに「馬越橋うまこしばし」とづけられたはしがありましたが、現在げんざいはしはかけかえられたものです。

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