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幸山城跡

関係かんけいする市町しまち総社市そうじゃし

こうざんじょうし

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】総社市西郡【時代】鎌倉時代後半~安土桃山時代
【指定年月日】昭和50年2月3日【所有】共有

この史跡しせきについて

 幸山城こうざんじょうは、福山ふくやま西北せいほく標高ひょうこう164mの小山こやま頂上ちょうじょう立地りっちします。三方さんぽう絶壁ぜっぺきで、まもりやすく攻めにくい天然てんねん要塞ようさいとなっており、眼下がんか山陽道さんようどう一望いちぼうできる良好りょうこう立地条件りっちじょうけんもときずかれた山城やまじろです。
 鎌倉時代かまくらじだい後半こうはんに、庄左衛門四郎資房しょうざえもんしろうすけふさきずいたとされています。室町時代むろまちじだいの中ごろには、庄氏しょうしから備中国びっちゅうのくに守護職しゅごしょくにあった細川氏ほそかわし配下はいか石川氏いしかわし城主じょうしゅわり、以後いごやく150年にわたって居城きょじょうしていたとみられます。16世紀せいき後半こうはんには、備中松山城主びっちゅうまつやまじょうしゅ三村元親みむらもとちか毛利氏もうりしあいだ備中兵乱びっちゅうひょうらんと呼ばれるいくさこり、幸山城こうざんじょうはその舞台ぶたいとなったしろの一つです。幸山城主こうざんじょうしゅ石川久式いしかわひさのり毛利軍もうりぐんくわわっていましたが、義理ぎり兄弟きょうだいたる三村元親みむらもとちか毛利氏もうりし戦闘状態せんとうじょうたいになると、三村氏みむらし援護えんごしました。しかし、松山城まつやまじょう落城らくじょう元親もとちか切腹せっぷく久式ひさのりめられ自害じがいしました。その後、幸山城こうざんじょうは、毛利氏もうりしとも三村氏みむらしめた小早川隆景こばやかわたかかげあたえられましたが、江戸時代えどじだいはじめには廃城はいじょうとなったようです。
 幸山城こうざんじょうには、ほり仕切しきられたくるわばれる2つの区画壇くかくだんがあり、「西にしまる」、「ひがしまる」とばれています。

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