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興譲館

関係かんけいする市町しまち:井原市

こうじょうかん

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】井原市西江原町【時代】嘉永6(1853)年
【指定年月日】昭和34年3月27日【所有】学校法人興譲館

この史跡しせきについて

 興譲館こうじょうかんは、庶民しょみんの子どもの教育目的として、当地とうち領主一橋家りょうしゅひとつばしけ代官友山勝治だいかんともやまかつじ西江原領内にしえばらりょうないに、嘉永かえい6(1853)年、漢学者かんがくしゃ阪谷朗廬さかたにろうろまねいて創立そうりつした郷校きょうこうです。  
 校名の由来ゆらいは、四書の『大学』の、「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興る」からとられました。創設そうせつ当時の姿をとどめているのは、講堂こうどうと校門、そして阪谷朗廬さかたにろうろ手植てうえと伝えられる紅梅こうばいです。
 講堂こうどう(書斎付しょさいつき)は、嘉永かえい6(1853)年に建てられました。元は藁葺かやぶきであったものを、唯一ゆいいつ安政あんせい6(1859)年に現在のような瓦葺かわらぶきとなりました。建坪たてつぼ25.5つぼ(書斎しょさいは4.5つぼ)本瓦葺ほんかわらぶ平屋建ひらやだてで、平成7・8年に保存修理を行い、現在は資料を展示し公開しています。校門は桟瓦葺さんかわらぶきで、初代館長しょだいかんちょう親交しんこうのあった渋沢栄一しぶさわえいいち揮毫きごうした扁額へんがくがかかっています。校門近くの紅梅こうばいは、樹齢じゅれい約150年で、根元ねもとの近くから東西とうざいに分かれ、毎年春には美しい花をかせています。
 阪谷朗廬さかたにろうろは、井原市美星町いばらしびせいちょうに生まれた漢学者かんがくしゃで、江戸で学び、井原市芳井町よしいちょう桜渓塾おうけいじゅくを開いていました。その後、興譲館こうじょうかんまねかれ、領内りょうない子弟していの教育を行いました。朗廬ろうろ名声めいせい各地かくちに広がり、遠くは九州地方からの入門者にゅうもんしゃもありました。その後、広島藩ひろしまはん明治政府めいじせいふまねかれ要職ようしょくつとめるとともに、森有礼もりありのり福沢諭吉ふくざわゆきち主催しゅさいする明六社めいろくしゃ唯一ゆいいつ漢学者かんがくしゃとして参加しました。

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