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早島戸川家陣屋跡

関係かんけいする市町しまち早島町はやしまちょう

はやしまとがわけじんやあと

関係かんけいのある情報じょうほう

【場所】早島町早島【時代】江戸時代
【指定年月日】昭和40年8月31日【所有】早島町

この史跡しせきについて

 備中都宇郡早島周辺びっちゅうつうぐんはやしましゅうへんは、岡山城主おかやまじょうしゅ宇喜多秀家うきたひでいえ領地りょうちでしたが、秀家ひでいえ慶長けいちょう5(1600)ねん関ヶ原せきがはらたたかいでやぶ滅亡めつぼうしました。わってこの領地りょうち戸川逵安とがわみちやすらが入りました。
 逵安みちやす宇喜多家うきたけ家臣かしんでしたが、その家臣かしんをやめ、関ヶ原せきがはらたたかいでは東軍とうぐんたたか手柄てがらて、そのほうびとして徳川家康とくがわいえやすから都宇郡つうぐん賀陽郡かようぐん一部いちぶ領地りょうちとしてあたえられました。寛永かんえい5(1628)ねん逵安みちやす正安まさやす領地りょうちぎ、そのなかから早島地域はやしまちいき3400こくおとうと安尤やすもとあたえ、早島知行所はやしまちぎょうしょ成立せいりつしました。安尤やすもと元禄げんろく6(1693)ねん陣屋じんやくことをめ、宝永ほうえい6(1709)ねん安貞やすさだのときに完成かんせいしました。
 この陣屋じんや明治維新後めいじいしんごこわされましたが、早島小学校はやしましょうがっこうのすぐ西隣にしどなりにおほり一部いちぶ石橋いしばしのこっています。

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