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光助霊神宮

関係かんけいする市町しまち矢掛町やかげちょう

こうじょれいじんぐう

この史跡しせきについて

【場所】矢掛町東三成【時代】江戸時代 (享保12年)
【指定年月日】昭和63年9月19日【所有】圀勝寺

この史跡しせきについて

 元禄げんろく12(1699)年に、東三成ひがしみなり丘陵地きゅうりょうち(下道氏墓しもつみちのしのはか)より、吉備真備きびのまきび祖母そぼ火葬かそうにして埋葬まいそうした銅壺どうこ(銅製どうせい骨臓器こつぞうき)ならびに遺骨いこつ発見はっけんされました。それをけて、享保きょうほう12(1727)年、とき領主りょうしゅ庭瀬にわせ藩主はんしゅ板倉昌信いたくらまさのぶは、同家どうけ祈願所きがんじょ中蔵坊ちゅうぞうぼう境内けいだい社殿しゃでんもうけ、この銅壺どうこ安置あんちしました。
 その享保きょうほう13(1728)年には京都きょうと吉田家よしだけから神号しんごうあたえられて、この社殿しゃでんを「光助霊神宮こうじょれいじんぐう」としょうするようになったものです。
 なお、享保きょうほう15(1730)年・中蔵坊ちゅうぞうぼうは、下道圀勝しもつみちのくにかつ名前なまえにちなみ、圀勝寺こくしょうじ改称かいしょうされました。現在げんざい光助霊神宮こうじょれいじんぐう平成へいせい18年にえられたものです。

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