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小寺こでら 清先きよさき

活躍かつやくしたとし:1748~1827年

関係かんけいする市町しまち笠岡市かさおかし

なにをしていた人?:国学者こくがくしゃ教育者きょういくしゃ

関係かんけいのある情報じょうほう

敬業館けいぎょうかんあと
西山拙斎にしやませっさい

 小寺清先こでらきよさきは、寛延元かんえいがん(1748)ねん笠岡村かさおかむら陣屋稲荷じんやいなりいま笠岡小学校かさおかしょうがっこう裏山うらやまにある)の神主かんぬしとしてまれました。
 京都きょうと卜部氏うらべし神道しんどうを、和歌わか澄月ちょうげつまなびました。いえ仕事しごとぎましたが、のち長男ちょうなん清之きよゆき神主かんぬしをゆずりました。
 寛政かんせい10(1798)ねん笠岡かさおか郷学きょうがく敬業館けいぎょうかん」という学校がっこうがつくられたときに、笠岡代官かさおかだいかん早川八郎左衛門はやかわはちろうざえもんによって初代教授しょだいきょうじゅ任命にんめいされ、子弟してい教育きょういくつとめました。
 その名声めいせいしたって、備前・備後・安芸・長門・豊後びぜん びんご あき ながと ぶんごなどとおくのくにからまなものがたくさんおとずれたとつたえられています。また、おだやかで上品じょうひん性格せいかくで、鴨方かもがた西山拙斎にしやませっさい神辺かんべ菅茶山かんちゃざん近隣きんりん文人ぶんじんともしたしく交流こうりゅうがありました。
 清先きよさきは、文政ぶんせい10(1827)ねん、80さいくなるまで、30年近ねんちかくも敬業館けいぎょうかん教育きょういくくしました。
 敬業館けいぎょうかん開校かいこうして80ねんあまりものながあいだ笠岡地方かさおかちほう学問がくもん中心ちゅうしんとしておおきな役割やくわりをはたしました。現在げんざい、その跡地あとち笠岡市かさおかし史跡しせきとなっており、塾舎じゅくしゃ生徒せいと宿舎しゅくしゃ)の建物たてものが、資料しりょうがかりに復元ふくげんされています。また、その裏手うらてには、早川代官はやかわだいかんの「思徳之碑しとくのひ」とならんで、小寺清先こでらきよさきとくたたえた「楢園先生之碑せいえんせんせいのひ」がのこっています。

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