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小野おの 竹喬ちっきょう

活躍かつやくしたとし:1889~1979年

関係かんけいする市町しまち笠岡市かさおかし

なにをしていた人?:日本画家にほんがか

関係かんけいのある情報じょうほう

笠岡市立竹喬美術館かさおかしりつちっきょうびじゅつかん
笠岡かさおかまれた日本画家にほんがか 小野竹喬おのちっきょう

小野竹喬380
小野竹喬 笠岡市立竹喬美術館所蔵かさおかしりつちっきょうびじゅつかんしょぞう
 小野竹喬おのちっきょうは、明治めいじ22(1889)ねんいま笠岡市笠岡西本町かさおかしかさおかにしほんまちで、商家しょうか四男よんなんとしてまれました。  14さいとき画家がかになるため京都きょうとき、栖鳳塾せいおうじゅく勉強べんきょうをし、15さいのときに先生せんせいから竹橋ちっきょう(33さいとき竹喬ちっきょう改名かいめい)という名前なまえをもらいました。  大正たいしょう5(1916)ねん、セザンヌなどの影響えいきょうにより洋画ようが手法しゅほうとりれた「島二作しまにさく」が展覧会てんらんかい特選とくせんえらばれました。大正たいしょう7(1918)ねんにはあたらしい日本画にほんが創造そうぞう目指めざして、土田麦僊つちだばくせんらと国画創作協会こくがそうさくきょうかいをつくりました。  大正たいしょう10(1921)ねんから半年間はんとしかんヨーロッパへき、西洋美術せいようびじゅつ研究けんきゅうしました。帰国後きこくごは、文人画ぶんじんが職業画家しょくぎょうがかでない知識人ちしきじん制作せいさくする絵画かいが)へのおもいをふかめ、昭和しょうわ3(1928)ねんえがいた「冬日帖とうしつちょう」で、素朴そぼく瑞々みずみずしい独自どくじ風景画ふうけいが完成かんせいさせました。  戦後せんごは、日本にほん伝統的でんとうてき大和絵やまとえあらたに解釈かいしゃくし、明快めいかい温和おんわ作風さくふう確立かくりつしました。  代表的だいひょうてき作品さくひんには「おく細道句抄絵ほそみちくしょうえ」があり、ずしんと、こころなかまでしみこむあたたかさをかんじられるようなだとわれています。75年間ねんかん画業がぎょうとおして、日本にほん自然しぜんうつくしさをえがつづけた人々ひとびとあいされています。  竹喬ちっきょう功績こうせきをたたえつたえるため、昭和しょうわ57(1982)ねんに、笠岡市立竹喬美術館かさおかしりつちっきょうびじゅつかん開館かいかんしました。

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