山田方谷は、文化2(1805)年、今の高梁市中井町西方の農業と菜種油の製造と販売を行っている家に生まれました。5才で新見藩の藩校で教授をしていた丸川松隠に学問を学びました。
29才からの3年間江戸で勉強しました。32才で新見藩に戻り、方谷自身も21才の時に学んだ備中松山藩の学問所「有終館」の学頭(校長)となりました。また、学頭時代の天保9(1838)年に私塾「牛麓舎」をつくり、明治の三大文宗の一人に数えられる三島中洲や、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子はこの地で学びました。
45才のとき、備中松山藩主の板倉勝静から藩の財政を管理する役をまかされました。方谷は、7年間で借金を返済する計画を立て、10万両(今のお金で約300億円)の借金を返すと、さらに10万両を貯めて、藩の財政立て直しに大きく貢献をしました。
明治維新の後、旧松山藩は高梁藩として再興されましたが、この間に方谷が果たした指導的役割とその貢献は大きなものでした。
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